ジムニーひと筋。

VOL.255 / 256

二階堂 裕 NIKAIDO Yutaka

昭和29年6月17日、北海道旭川市生まれ。
RV4 WILD GOOSE(アールブイフォーワイルドグース)株式会社代表取締役社長、エスエスシー出版有限会社代表取締役社長。1998年に出版部(2002年7月にSSC出版有限会社として分社)を作り、JCJ会報であった「スーパースージー」(後のジムニースーパースージー)を市販化。自らも執筆して、多くの単行本やムックを出版している。
日本ジムニークラブ会長も務める。

ジムニーひと筋。---[その1]

2018年の新型モデルが登場して以来
空前のジムニーブームが巻き起こっているが
二階堂裕さんはこの車種を44年間も一途に愛し、
追いかけてきたひとりである
人生の、仕事のキャリアにおいても
ユニークな二階堂さんの人生をのぞきつつ
ジムニーの真の魅力を教えてもらった

 私は北海道の旭川市出身なんです。札幌、旭川、北見、函館など、父親が陸上自衛隊だったので道内を転々としました。自分は高校生の時に、旭川にある航空協会に所属してグライダーで飛んでいたのもあって、大学へは行かずに、パイロットになることを目指して海上自衛隊の航空学生の道を選んだのです。
 20歳になって、パイロットにもなれたのまではよかったのですが、肺気腫という病気にかかってしまいました。そうなると搭乗員になれません。自衛隊の飛行機にはパイロットだけではなく、武器員、機上整備員、レスキュー、レーダー員、ソナーマンなど、12人も乗っているんですね。肺気腫だと、そこに乗せてもらえないんです。管制官にもなれない。
 飛行機を降りた私は、地上電子整備の仕事に就くしかありませんでした。しかし、拾う神ありで、原子力潜水艦の音紋(おんもん)を解析する部門に航空学生出身の人がいて、「こっちへ来て働かないか」と引き抜いてくれたんです。
 そこからは音響解析の仕事を毎日やっていました。潜水艦から発せられる音には、音紋というその艦独自の音が海中に発せられています。当時は冷戦まっただ中なので、潜水艦の音を拾うために、水中ハイドロフォンが海峡にはたくさん仕掛けてあって、音を集めてきて解析するんです。たとえばロシアの潜水艦であれば、ウラジオストック第一艦隊の第二潜水艦隊の1号艇とかまで分かるんです。トイレの音、1速、2速とギアチェンジをした時の音などをデジタル解析していくと、違いが波形に現れて特定できるんです。平和な時の冷戦って、どこに敵国の潜水艦がいるのかを把握するという、そんな戦いだったんです。

海上自衛隊で働いていた頃の二階堂氏。病気でパイロットから地上電子整備へと職種を移らざるを得なかったが、それが人生の転機につながっていく。

4輪駆動車ブーム

 その海上自衛隊の頃からジムニーに乗っていました。当時から(神奈川県)大和市にヤマト4×4クラブがあって、そこに入ってジムニーで遊んでいたんです。周りはジープばかり。私もジープ、ランクルを持っていましたが、ジムニーで走るのが一番好きでした。オフロードレースへも参戦していました。それが1977年。ちょうど第一次4輪駆動車ブームの頃です。同じ年に「4×4マガジン」が創刊されて、私たち4輪駆動車ユーザーは驚きました。1970年代って4輪駆動の専門誌なんてありませんでした。ドライバー、モーターファンといった車雑誌の中で、たまに特集が出る程度でしたから。
 ジムニーSJ30が出たのが1981年のことです。すぐに買いました。そのSJ30については、印象的な思い出があります。SJ30を買う前に、福島県の羽鳥サバイバルランドというオフロードコースで4×4フェスティバルというイベントがあったんです。そこへ行った時に、SJ30をデザインした方やスズキの開発部の人たちと初めてお会いして、いろいろと話を聞いていると「スズキの人ってあまり4輪駆動車について知らないんだな」と感じたんです。態度でかいでしょ(笑)。でも、本当にそう思ったんですよ。
 オフロードを走って遊ぶ、ジムニーの限界まで攻めるといった遊びを私たちはクラブで常にやっていたので、アプローチアングル、デパーチャアングル、ヒルクライムの登坂力などがバンパーによってスポイルされている、サスペンションのストロークが短いからスポイルされているという内容の会話は日常茶飯事。でも、スズキの人には通じなかったんです。少し驚きましたね。

スズキへ入社

 じつはこの頃には、海上自衛隊時代から海上幕僚長に許可をもらって4×4マガジンでライターをやっていました。よく読者の投稿ページがあるじゃないですか。はがきに書いて投稿したんです。そしたら当時の編集長が「二階堂さん一度遊びに来なさい」というわけですよ。編集部は渋谷の松濤にあったので、遊びに行ってみると「今度取材へ行くから一緒に来なさい」と。それで一緒に取材へ行って原稿を書かしてもらったのがスタートですね。原稿料をもらえて、アルバイトのような感覚でやっていました。そういう経験があったからか、雑誌を通じて4輪駆動車やジムニーについて考えることが多く、他人よりも突き詰めていたのかなと思います。スズキやジムニーへの愛情も、普通のジムニー乗りより強かったと思います。
 転機となったのは1982年。スズキが中途採用を募集し始めたので、願書を出して試験を受けたんです。結果は合格で、スズキに入社できることになりました。
 最初に所属したのは電算機処理をする部署でした。どんな仕事をするかと言うと、カーメーカーがリコールをするじゃないですか。その際、リコール対象の人全員に手紙を出さないといけないんです。そのために、すべての車のデータをスズキは持つ義務があり、それを処理・手続きする部署が電算機処理だったんです。販売した車のすべてのデータを管理し、名義変更された後もデータを修正していく係です。毎日のように届く書類をパソコンに入力する。そんな仕事をやっていました。
 そんなある日、上司から「二階堂くん、英語できる?」と聞かれました。「パイロットをやっていたので、少しはできます」と答えると、輸出サービス部の人を紹介してくれて、今度はその部署へと移る話になったのです。


 

ジムニーひと筋。---[その2]

ファッション感覚でジムニー人気が拡大しているが、
この車種の本当の魅力は
「アスファルトから外れてオフロードに踏み入れた時だ」と
二階堂裕さんは言う
どんな世界がそこから始まるのか?
38年間発行し続けてきたスーパースージーを
結果的に守ってきた歴史とともにひも解く

 スズキに入って間もなく、輸出サービス部に声をかけてもらい部署を移ったのですが、最初の会議で衝撃を受けました。会話がすべて英語で、まったく聞き取れなかったんです。これは勉強しなければと、隣の席の先輩のアドバイスのもと、まずは「1000時間ヒアリング」からスタート。1日3時間やって1年で1000時間達成を目指しました。車通勤中の往復40分には必ず聴き、お昼休みにも45分。風呂とトイレに入った時も聴いて加算し、1日3時間ずつ勉強しました。そしたら700時間くらいになった時に、テレビでやっていた海外映画の内容を聞き取れるようになったんです。今でも覚えています。「サウンド・オブ・ミュージック」の再放送でした。

1982年に創刊されたスーパースージー。現在は奇数月の9日発売、隔月発行のジムニー・スーパースージーとして継続されている。

廃刊から一転、市販化へ

 スズキには12年間勤務しました。28歳入社、退社したのは39歳。そのうちの5年間はインドネシアの駐在員でした。もちろんずっとスズキで働き続きようと考えていたのですが、大和4×4クラブ時代からの友達が「サラリーマンより経営者の方が向いているから社長をやりなよ」と会社を作ってくれて、39歳からは経営者になりました。それがRV4ワイルドグースです。
 スズキに入社した1982年に日本ジムニークラブを作り、私は初代の事務局長を務めました。当時はインターネットもメールもない時代だったので、同年10月に会報誌「スーパースージー」を創刊しました。製作は3人で仕事としては大変でしたが、苦痛だとは思いませんでした。会報誌とはいえ、誌面作りは楽しかったですね。
 それから15〜16年、会報誌という形でスーパースージーを作り続けました。会報誌でありながら今のように市販化されるきっかけとなったのは、日本ジムニークラブの解散話が持ち上がった時です。設立して拡大したクラブは、全国40支部にまで成長し、クラブとして初期の目的を果たしたという考えがありました。あとはそれぞれの支部がジムニーを楽しむクラブ活動を続けていけばいい、と。でも、反対意見が多くて解散話は流れてしまいました。
 一方のスーパースージーはというと、人手が足りず製作を続けられなくなっていたんです。私自身はRV4ワイルドグースの仕事が忙しく、その頃には誌面製作から離れていました。でも、クラブの会長だったので、私がスズキに「15年間ありがとうございました。次号をもって廃刊にします」と伝えに行くことになりました。ところが、スズキとしてはなんとか続けてほしいと言うわけです。部長決済なら広告費用も上げられるので、なんとか続けてくれ、と。ジムニーワンメイクの本だと売れないかもしれないけれど、年間4回の薄い本にすれば、編集費は出るかなと、私はその話を渋々持ち帰ることにしました。
 クラブの皆に伝えると「廃刊にすると言いに行ったのに、市販化するってどういうこと?」と怒られました(笑)。とくにプロの編集者たちは大反対。当時は四駆雑誌全盛期で、4×4マガジンしかり、レッツゴー4WD、4WDフリークなど、四駆雑誌だけで10誌くらいありましたからね。そこにジムニーワンメイクの本で勝負するのは無理だと散々説得されました。でも、いざ発行してみたら予想より売れたんですよ。というわけでスーパースージーは途切れることなく、今年で創刊から38年目を迎えたわけです。

過去、ラリーに参戦した時の相棒も、プライベートドライブで心を癒してくれたのもジムニー。二階堂さんの人生からジムニーは切り離せないものだ。

ちょうどいいジムニー

 今までに4輪駆動車を80台ほど購入して乗ってきて、ジムニーは今でも11台所有しています。なぜジムニーが好きなのかと言うと、オートバイに似ているところがあるからです。
 オートバイには小排気量から大排気量まであります。オンロードだと馬力がある方が面白くて、1300ccだと扱いきれず、コントロールできてちょうどいいのが500ccとか750ccあたりですかね。オフロードになるとそれがグッと下がって、125cc、250ccあたりで、誰もが自由に操れるとなるとトライアルバイク。125ccくらいがちょうどよく楽しめる排気量なんです。
 同じことが車でも言えて、4000ccの車も面白いけれど、車重は重いし、車体が大きくなればなるほど、オフロードでのテクニックが使えなくなります。たとえばソーイングというテクニック。急斜面を登る際、アクセルを踏んだまま左右に何度もハンドルを切り返して、縫うように登る走法なのですが、大きい車だとそれができないことが多いんです。軽ければ軽いほど人間がコントロールできるところが増え、楽しめる幅が広がり、オフロードを楽しめるジャストサイズがジムニーなんです。私は早い時期にそう気づきました。ランクルもジープも持っていましたが、オフロードで遊ぶならジムニーしかない、と。
 オフロードを走る感覚はスキーやサーフィン、スノーボードに似ている気がします。その楽しさを知れば、もっと夢中になる人が増えるはずです。だから、ジムニー所有者なのに街乗りで終わっている人は本当にもったいない(苦笑)。現実はジムニー乗りの9割が街乗りメインですが、RV4ワイルドグースでは26年間、オフロードスクールを開催して、アスファルトから外れてオフロードを走ると楽しいんだよというのを伝える活動をしてきました。それを継続しつつ、ある一線を越えた先にある真のジムニーの魅力をこれからも伝えていきたいと思います。

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